冬の鬱
というわけで冬の話。
鬱もすっかり自分に染み込んでしまい、布団の中から出ることもままならなくなり、夜の長さも相まって、一日中布団の中にいることはもはやそのころの私には当然のような状態になっておりました。
雪も積もり、自身の頭もろくに回らなくなり、そのころはまるでセメントの中に沈められたような、雪のただなかにコートを着せられずに外に出されたような、そんな寂しさを抱きながら一日中悶々としており、そのころはただ一つのことだけを考えておりました。
どうやったら楽に死ねるんだろうなー、と
もちろん今これを書いている時点では死んではいませんし今のところ死ぬ予定もございません。ですがそのおころの私には、どうやって死のう、どうやって消えよう、そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回り続けておりました。
死ぬことが間違っている…とは今でも断言することができないのは今でも鬱と戦っているからなのか、それとも鬱が自分にささやいているのかはわかりません。
ですが、鬱になるということはそればかりを考えさせることでもありました。
もともと、小さいころから死にたいという感情を心の隅かどこかにおいて生きておりました私には、死に方を発想させることなどいくらでもポンポンと湧いて出ることではありました。
ですが、そのどれもこれも私の死に方にそぐわないものでもあることは確かでした。
というのもそのころの私の希望的死に方はいわゆる「クラシックな日本人の思い描く死に方ナンバーワン」とでもいうべき「畳の上で苦しまずに死にたい…」というモノでした。
しかし私の鬱に罹った貧弱な脳味噌でポンポンと出てくる死に方はどれもこれもそれらにそぐわないばかりか、人様に迷惑をかけるものばかり。
まったく、人間ろくなことを考えているとそれを勝手にセーブするものですね。
勝手にそれら打ち出したものを勝手に判別し、バツ印ばかりをつけていくのでした。
今になって思えばそれは、私にとってのどんな恥や苦しみを背負ってでも、
この先の世界を見てみたい、もっといろんなことを知ってみたいという願望が、所謂
生きたいという願望だったのでしょう。
ですがそれらの行きたいという願望と死にたいという願望がぶつかり合い、そして何事もなせぬまま冬の夜長は過ぎていき、生き物の芽が栄える春へと進むまで、悶々と私自身を攻め立てたのでした。
皆さまはそのようなことにならないよう予防だけでもしておいてください